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堺線香について

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さかいは国の「まほろば」-もう伝統産業と呼ばせない-

(1)堺市産業をこう振興する
 堺市は人口84万人強、第15番目の政令都市で、他府県、他都市と比較すれば府県単位の都市であり、関西に於いても、大阪、京都、神戸に次ぐ堺市となっている。今や関西経済圏では四大都市として発展し、産業界は堺の位置付けは臨海地区を含めて、内陸部と合計事業所数1,892件、従業員数は51,099人、製造業出荷額3,225,587百万円と政令市20市の内5位となっている(22年12月31日、工業統計)。特に原材料使用額等は2,217,213百万円となり、第3位となっている。
 このように大規模工業地域をもちながら、臨海からの物流は直接海から出荷できず、大阪南港ならびに阪南港等の利用の現状を打開するため、未だ何の手も打たれていない。最も大きな要因は、海の港湾の深さで、大型貨物の水切線以下であり、小型船はじめ、ボートの横持ちでの現状にある。臨海の各企業は直接自社バースからの出荷物流できれば、どれだけの改革メリットがあるか、想像もつかない効果が期待できる。海の埋め立て工事以上に海の深堀りコストが大きいからできないという理由で、臨海企業の発展を遅らせている。

 経済発展の根本は地元産業界の発展から成る。堺市は臨海工業地帯の開発から50年近い歴史をもち加えて住みよい緑のまちづくりのため内陸部の規制、臨海部への進出と両側面から経済・産業政策を進め、一時、重厚長大の臨海工業地帯を形成した。その後、日本経済のバブル崩壊もあり、新日鉄堺の高炉廃止をはじめ、企業等の国内外への移転により、経済の活力低下を余儀なくされた。しかし、今日、企業経営形態に変更があるにせよ,シヤープ垂直統合型の大規模コンビナート(127ha)も現実に操業を進めている。中小企業団地や鉄工団地3カ所、刃物団地1カ所、化学工業団地1カ所、その他3団地に中小企業が内陸部より移転、発展を遂げている。
 これらの現状は雇用を安定して進め、且つ企業立地進出による固定資産税の減免等も含め数々の進出企業へのメリットがあるが、残念ながら、それ以上の施策がとられていない。

 平成23年度より、この臨海の匠町区域に中小企業クラスター形成による堺市内の中堅企業のモデルとなる12社の進出もあり今後の発展に大きく期待をよせているものの行政として更に積極的な企業誘致と総合的に発展させる働きも必要ではないか。

(2)大和は国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる やまとし うるわし
 そう詠われた景行天皇の御代に、「堺」はまだ、文献上において地理的に独立した地域としては認識されていない。「堺」は、平安時代の「境」として名前が登場する。それは当時、行政上での近畿という河内・和泉・摂津の境目としての記述であり、国境の文字として登場した、「堺」のごく一面に過ぎない。
 「堺」は、文献に登場する以前、二万年前からいにしえの人々の足跡を残している。大泉公園にほど近い場所で発掘調査が行われた堺市北区の「南花田遺跡」は、旧石器時代の人々が定住した柱の跡や、調理か暖をとったのか焼きしめられた床、当時の狩りに使われた石器など、驚くべき事実が明らかとなった。従来、旧石器時代の定住した痕跡が確認されていなかった為、一大センセーショナルな報道がなされた。戦後、高松塚古墳に匹敵するぐらいの、インパクトであったと後に知った。一躍「堺」は、日本の最も古い家の跡として、注目を浴びた。当時、中学生だった為、その価値は今ほどには理解しがたいものであったが、「堺」を誇らしく感じた記憶が残っている。  しかし、行政的なことや歴史的なこと以外に、「堺」が周知のごとく人々の印象や記憶としてあげるのは、安土桃山時代の南蛮貿易としての、世界に開けた玄関口の「堺」以降の歴史であろう。16世紀以降、信長や秀吉の時代に個性的な魅力を発揮した自由都市「堺」、文化的エポックメイキングとして広くしられる利休の堺や与謝野晶子の「堺」、そして東洋のマニファクチュアと謳われる産業革命としての「堺」など、例をあげれば枚挙にいとまがない。
 全国で広く「堺」が知られるようになった一つの契機として、テレビが果たした役割は大きい。昭和53(1978)年、若き歌舞伎役者の市川染五郎(現、松本幸四郎)が演じる「黄金の日々」がNHKという当時はまだ娯楽も今ほどにはない時代、電波を通して、一般のお茶の間に堺の輝かしいイメージを浸透させた。あれから35年という歳月を経て、平成25(2013)年、これからの歌舞伎界を背負う第7代市川海老蔵が演じる、小説「利休にたずねよ」が映画化される。映画という大スクリーンを通して、再び「堺」がそして利休が脚光を浴び、またこの地が広く知られるであろう。実にありがたいことである。

しかし、しかし、である。旧石器時代から現在まで、進取の気質に富み繁栄し、幾度と訪れた天変地異や戦争にもかかわらず繁栄し続けた「堺」は、いつもいつも、「黄金の日々」に象徴される-いにしえの「堺」-のみが喧伝されているに過ぎない。過去の栄光を超えることなく、黄金の日々だった「堺」がイメージとして定着している。
なぜだろう。
 「堺」は、あらゆる面でポテンシャルの高さはあるものの、№1になったことがない。これは語弊がある。幾度となく、№1になっている。「堺」の人々は、№1になっていても、全くそのことに興味がないのである。これこそが、進取の気質の唯一のマイナス点であろうか。

 例えば、卑近な例ではあるが、現在の観光を俎上にあげてみれば、分かり易い。  世界中の観光客が一度は訪れたいと言われる、世界一古い宮家天皇の住んだ寺社仏閣の宝庫京都や奈良。若者達のデートスポットでは、常に上位にくる異国情緒溢れる函館・横浜・神戸・長崎。首都東京とスカイツリー。食の大阪と、グランフロントのオープン。青い海の沖縄。大自然の北海道。大河ドラマ「八重の桜」の福島や、朝の連続ドラマ「あまちゃん」の岩手。全国随所の温泉地やB級グルメ。ディズニーランド。ゆるキャラがその土地にまで誘うひこにゃんにくまモン。巷のガイドブックをみて、一億二千万の国民の周知度の高い地域や施設は、自然やその土地の名所旧跡、地域食の豊かさ、交通や宿泊施設、いずれも充実している。宣伝の巧みさやわかりやすさなど、いずれも年代や性別にかかわらずいつかは一度は行ってみたいと、有名どころの観光地はそれなりにそそるものがある。
 ところが、ところが、である。茶の湯に代表される、「おもてなしの堺」が、なんとしたことであろうか。観光客は素通りである。
 「堺」は、空港や新幹線や私鉄などの交通機関に恵まれ、道路も整備されている。タクシーやバス、路面電車もあり、移動にはことかかない。治安も良く、素晴らしい歴史や文化がうなるほどある。山海の珍味のみならず、古くから伝わる和菓子に鯨料理、ベトナム料理を始めとする世界中の料理もふんだんにある。市役所の展望台は無料で九時まで開放して絶景のロケーションを提供し、一年中様々なイベントに溢れている。産業は、それこそいにしえの技術から最先端まである。観光地値段という阿漕なこともせず、人は情に濃く明るく、常に生活の拠点として生産の拠点として淡々と存在している。しかし、観光においては、華々しい大阪や神戸や京都には及ばない地味な「堺」なのである。歴史好きには古墳、お茶好きには利休、№1のものは沢山あるにも関わらず。こと観光に限って言えば、絶対「堺」、一度は「堺」、必ず「堺」ではないのである。これが、観光における「堺」の現実なのである。

話をまほろばに戻そう。
 「堺」は、先人から連綿と受け続いてきた歴史、文化、技術、いずれの分野においても、常に最高水準のものを、世界にそして日本に発信してきた。それは、今や言いふるされた感が否めないが「モノの始まりみな堺」に言い表されている。これは、「堺」を一言で体現している端的なキャッチコピーである。「堺」こそが、常に国のまほろばとして存在してきたのである。では、その根拠とは。
 -久爾能麻本呂婆- 国の中で最も重要なこととは、いったい何なのか?
まほろばとは、行政の中心地や最先端や消費地のような、薄っぺらいことではない。日本人が自ら日本を誇れる、土地や技術や精神の拠り所となるもののことではなかろうか。
 そういった意味では、筆頭に富士山を挙げたい。今年、富士山が世界遺産として勧告された。神々しいまでの美しさを誇る自然が、やっと世界から評価を受けた。富士山という自然地形が、信仰や葛飾北斎などの芸術、日本人に与えた影響は計り知れないものがある。まほろばの自然の代表格が富士山ならば、人工物や技術の代表格は、「堺」が名乗りを上げたい。
 一例を挙げるならば、世界一の規模を誇る、前方後円墳「仁徳天皇陵」
 弥生時代に九州地方で導入された農耕と金属加工の技術は、瞬く間に日本国土を席巻した。ここ泉州他方はそれらをいち早く取り入れ、池上四ツ池遺跡(堺市・和泉市・岸和田市)などにみられるように集落を形成し、祭祀による一つの纏まりの痕跡を見せる。巨大神殿跡というものが、この泉州地方に出現した意味は大きい。続く古墳時代は、この地を海岸部から見える百舌鳥古墳群や古市古墳群(堺市・羽曳野市・藤井寺市)の造営地として選定した。五世紀の「堺」は、新しい国家観の中で「富の集約」と「最高技術の集約」の証拠を残している。巨大古墳を造営できた土木技術や、国家最高水準の副葬品など、十分世界遺産に相応しい要件を備えている。
 教科書的な、7世紀以降、都のある無しという中央集権的価値観でのまほろばではなく、五世紀の「堺」こそが、連綿と続く真の国のまほろばの幕開けを切ったと考えられる。

過去も現在も、最高水準の技術と魂を受け継ぐ堺はまさしく「国のまほろば」であるにもかかわらず、現在の「堺」は、大正15年と昭和64年間と平成24年という、約一世紀に及ぶ間の凋落ぶりは、かつて何世紀にも渡る勢いのあった「堺」と比べ、如何なものであろう。広報云々の問題ではないのである。そこには、近代化という日本の構造的な問題が潜んでいる。
 私は、この「堺」に生まれ育ちまだ40数年である。
かつての華やかし堺の土地に移りすんだ初代沈香屋から数百年、在りし日の繁栄した「堺」は話しに聞くばかりである。昭和61(1986)年~平成3(1991)年のバブル景気も、伝統産業と言われる家業には全く縁遠いものであった。反対に、その後のバブル崩壊後に襲ってきた、就職氷河期平成5(1993)年~平成14(2002)年の煽りをまともに受けた世代である。私にとって、「黄金の日々」はまだ一度もないのである。
 私は、家業が『伝統産業』といわれる分野の一後継者として、その立ち位置から、自分達を育んでくれた「堺」の将来について、これからなにをすべきか考えていきたい。先人達の残してくれた歴史をふまえた上で、研鑽を積みながら堺に貢献していきたいと思う。それは、在りし日の黄金の日々を懐かしく思ったり、再び黄金の日々を再興するのではなく、自分達の世代が新たな「堺」を構築していくことに他ならない。
 伝統に則った技術的なものを正確に継承するととともに、新たな時代に通用する革新的な技術や商品を開発継承したい。その為には、形には表しづらい「堺」の精神を伝えていきたいと思っている。

 伝統産業は、現在の定義は、昭和49(1974)年に制定された所謂伝産法(伝統的工芸品産業の振興に関する法律)によるものである。 当時、高度成長を向かえ、大量生産による使い捨てからの反省もあり、原材料の入手難や後継者不足に陥っている我が国のあまたある産業を指定している。大臣指定には、日常に使われ、製造工程の主要部分が手工業でかつ伝統技術であること、一定の地域で産地を形成しているなどの要件を備えているものとしている。
 176品目(2004年版)の中で、「堺」の伝統産業に指定されているものは6種である。「刃物」「線香」「昆布」「和晒し」「段通」「自転車」である。世界に名だたるシマノの自転車のみが、100年以上という規定の中で、江戸時代に遡らないものである。後述するが、歯車の技術というものは、水時計やからくりなど飛鳥・奈良時代に遡るものである。
 伝統というものは、決して西暦的な古い新しいという意味合いだけで、使っている訳ではない。現在の行政の中での「伝統」という言葉には、ある程度線引きしなくてはならない為の狭義な意味のことである。広義な意味において伝統とは、広辞苑では、系統や血筋受け伝える、前代から受け継がれた先人の経験や事業、その社会の風習となり更に後に強い影響を与えるもの、となっている。

「堺」は、元和元(1615)年、大阪夏の陣で、中世の繁栄は灰と化した。現在の土居川に囲まれた「堺」の風景は、徳川幕府による商工都市計画によるものである。
 元禄2(1685)年の「堺」大絵図では、環濠内の人口6万3千人、町家6330軒と院225寺、職種400と明記されている。現在は無くなってしまった職業として、臼屋・からかさ屋・丁子油屋・読み書きなどあるが、すでにあらゆる職種がひしめきあっている。当時の生活で、無いものはないといっても過言ではない。現在老舗とされている「堺」の職種は、ほとんどが江戸時代には遡るものである。特に、線香は中世の南蛮貿易で華開いたワールド「堺」が、生薬を扱ったことにより高級線香の発祥の地である。また、刃物は遡ること弥生時代から連綿と伝わる鉄の技術の手工業の大成であり、中世の鋳物師として梵鐘などは世界最高水準である。堺更紗に代表される木綿は、和泉木綿として平安時代以降古い歴史を有し、晒し木綿や段通などの技術はその特化した技術によるものである。
「堺」は先に述べたように、旧石器時代の南花田遺跡「石器」、弥生時代の四ッ池・池上遺跡では「稲作」「金属」などの朝鮮の技術導入、古墳時代の須恵邑遺跡の須恵器による全国流通ネットワークの獲得や対外的に海外を意識した前方後円墳の築造、奈良時代以降では大道など交通の整備による物流と情報伝達、桃山時代以降の堺港は貿易による付加価値による富の蓄積、そして江戸時代においては今日のほぼ全ての職種がみられ近代国家の基礎的技術は完成された域に達している。明治時代以降もいち早く機械化して、東洋のマニファクチャと呼ばれ近代化に成功している。「堺」は、日本の匠の世界が凝縮している地域である。
「堺」の強みは、進取の気質、付加価値の創出、生産拠点としての立地、後継者の確保が代々行われていることである。ひとえに、「人」が創る「堺」、なのである。

 現在、伝統産業と呼称されている技術を継承する者の使命としては、単に古いものの技術継承ではないことを肝に銘じておかねばならない。確かな技術や思想を継承することは、「温故知新」基礎技術あっての底力があってこそであり、これこそが新しい時代を創設する「文化」になりうるものである。「堺」にあまたある伝統産業は、これからの「堺」を、ひいては日本を発展させていくには欠かせない必須アイテムなのである。 技術を継承することによってしか伝えられない精神を、次の世代にバトンタッチするためにも、先代から厳しく言われた芭蕉の「不易流行」を日々実行したい。「堺」をもっともっと元気にするよう、先人達の歴史を深く学び、伝統を正しく伝え、さらに技術革新を行っていきたい。もう古くさい伝統産業ではなく「匠のまち・堺」を合い言葉としたい。昔も今も、進取の気質を受け継いだ、一堺人として。

奥野 浩史