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堺線香について

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香りを運んだ古道、竹内街道~10章 堺と今井町を繋ぐ「香りの街道」~

 大阪の役が終わり、激動の時代が終わって平穏な江戸時代に入ります。秀頼によって着手された竹内街道の復興は、そのまま徳川幕府に受け継がれ、藤井寺や太子町で見られる見事な伽藍が竣工していきました。この時代、竹内街道は流通の要としての役割を果たし、日本の経済を盛り立てる重要な役割を果たしていきます。そして堺では、今日の伝統産業が次々と興り、堺線香もこの頃全国に拡散していきました。
 堺線香工業協同組合のホームページには、明治43年に組合にて発行された「堺の薫物線香」という堺線香の沿革史の概要の中で、堺線香の由来について詳細に記されています。戦国時代の最中、堺の薬種問屋だった小西弥十郎が、韓国で中国から伝わった線香の作り方を学び、堺に持ち帰って今日まで続く堺線香に繋がったとされています。
 室町時代の応仁の乱後、堺に移住した連歌家の牡丹花肖柏によって京都の公家に代々伝わってきた秘伝の香りの調合が伝授され、その後、戦国時代に入って信長の頃、千利休、今井宗久や津田宗及といった文人・茶人によって、茶道と共に堺に伝わった香木や様々な香りが全国の武将や有力者の間で珍重されました。小西弥十郎は秀吉の時代の商人で、線香製法が堺に伝わったのがその頃です。その後、江戸時代に入ってから秘伝の調合による優れた香りの線香が全国に拡散していったとされています。

堺市内にある曽呂利新左衛門の碑

 江戸時代は多彩な文人が活躍した時期で、武家から商家や町人に茶道や香りの文化が伝えられた時期でした。前述の「堺の薫物線香」でも名前が取り上げられていますが、曽呂利新左衛門という上方落語の始祖とされる文人が堺に現れ、茶道や香道を継承すると共に、古来から伝わってきた香りの調合を伝授したとされています


 秀吉の時代から江戸時代にかけての頃、竹内街道と共に高野街道も大変重要な役割を果たしてきました。この高野街道には、東、中、下、西と幾つかのルートがありますが、京都、大阪から高野山に至る重要な街道になります。この大阪から南下する高野街道と竹内街道が何箇所か交差する場所があり、重要な交通の要衝となっていたことが伺えます。

高野山の奥の院

 高野山に入って奥の院に向う途中、全国の名だたる戦国武将の供養塔が並んでいますが、その最も大きな供養塔はお江の方(崇源院)の供養塔といわれています。浅井三姉妹の三女で、信長から秀吉、家康と激動の時代を過ごし、後の徳川幕府の安定に貢献し、大河ドラマの主人公にもなったお江の方です。高野山は、秀吉の頃から手厚く庇護され、続く徳川の代も菩提所とされてきた経緯もあり、聖地として全国から信仰を集めると共に、非常に大きな経済的繁栄を周辺地域にもたらしていった事が偲ばれます。

今井町の町並み

 そうした経済的発展は当然堺にも反映したことと思いますが、堺から竹内街道を通じて大和国に入る、もうひとつの陸の拠点である今井町も重要な役割を果たしていきました。今井町は、もともと石山本願寺の寺内町として発展しましたが、石山合戦時には対立していたものの堺の豪商だった津田宗及の斡旋により信長に降伏、その後は自治都市として「海の堺」「陸の今井」と呼ばれるほど発展してきました。大阪の役でも町の焼失を避け、江戸中期に至るまで自治都市として地域の主要都市のひとつとして発展していきました。大きな経済力を持っていた今井町では茶道や香道も盛んで、江戸時代を通じて堺から多くの物資が運ばれていったとされます。

 堺、あるいは竹内街道を歴史の流れの中から「香り」を中心に眺めていくと、不思議なほど歴史の転換点で、それまで育まれてきた香りの文化が全国に拡散していった事が分かります。また日本の歴史の中で香りが重要な役割を担ってきた事も少しずつ垣間見えてくるかも知れません。飛鳥時代、聖徳太子の頃から延々と育まれてきた日本の香りの文化が、戦乱を経て堺の地に継承され、それが様々に形をかえて日本各地に伝わっていった経緯が多少とも見えてくれば、と思います。

2015.3.1掲載