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堺線香について

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香りを運んだ古道、竹内街道~9章 秀頼と竹内街道~

 信長、秀吉、家康と続く安土桃山時代から関ヶ原を経て江戸時代への時代の激動の中、堺は歴史上もっとも華やかな頃でした。しかしながら戦乱に明け暮れて、竹内街道も相当な被害があったとされています。聖徳太子の墓として知られている大阪太子町にある叡福寺も、信長の代に兵火で消失してしまいました。三好衆や松永弾正、それに信長と戦国時代後期には竹内街道沿は戦場になり、叡福寺ばかりでなく羽曳野にある誉田八幡宮や道明寺など、多くの歴史的な建造物が消失して竹内街道も荒廃したとされています。

叡福寺 聖徳太子廟

 秀吉による統一の後、時の天皇の勅令により秀頼がこれらの寺社の復興を手がけ、江戸時代に入った後は徳川によって引き継がれ、今日見られるような再建がなされました。このように竹内街道沿いの歴史的な史跡は秀頼によって再建されたと伝えられています。竹内街道の今日の姿も、秀頼の頃から江戸時代初期に改めて整備され、明治時代に入るまで大阪の堺と奈良の今井町を繋ぐ重要な街道として多いに発展することになりました。

竹内街道に残る民家

 さて、太子町は、名前の通り聖徳太子に由来する場所で、竹内街道の丁度中間地点くらいに位置します。ここを過ぎて二上山南麓の竹内峠を越えると奈良県に入り、当麻町に到着します。太子町は竹内街道が整備された頃から町として賑わった場所で、旧街道沿いには今でも昔ながらの大和棟の民家が点在する魅力的な風景が残っています。聖徳太子の墓所である叡福寺も大変魅力的な古刹で、竹内街道から少し離れた場所にあり、周辺には数多くの古墳や寺院が立ち並ぶ現在の太子町の中心部になります。観光には若干不便な場所ですが、大阪市内の中でも最も風情のある場所のひとつだと思います。

2014.12.25掲載